「家系図を10代遡ることで病気が治る」などと聞くと眉唾物だと思われるかもしれない。しかし、心療内科では医療行為として家系図が用いられたり、家系図画作成されたりしている。家族というのは、人間が形成されるときに最初に触れる環境であり、最も身近な環境だ。それが人の心に影響しないとする方が不合理だろう。そうだとしたら、その歴史をたどることは自分という存在を理解する行為の一つと言える。そして自分を理解することは心の問題を解決する第一歩だろう。
「私は医者ではありませんから、それがどうしてかというとは説明できません。しかし、家系を辿ることで登校拒否などの問題が解決したり、病気が治ったりしていることは事実です。今、心療内科の先生たちとチームを組んでそのメカニズムの科学的な解明のお手伝いをしています。」与那嶺正勝氏はそう語る。
現在、日本家系図学会会長を務める与那嶺氏が家系図研究の世界に足を踏み入れたのは全くの偶然だった。家系図研究の大家というと、さぞや子供の時から歴史好きだったのだろうと思いきや、「歴史というと暗記というイメージがあるでしょ。私は暗記っていうもが大嫌いなんですよ」と与那嶺氏は言う。将来は物理の先生になろうと考えていて、今はコンピューターが趣味だという氏は理系少年だった。そんな氏が学生時代、大学の図書館で偶然「沖縄の社会と習俗」という本が目にとまった。何気なくその本の開くと、その中の中根千枝氏の論文に与那嶺家の系図を発見した。そこから関心を持って自分のルーツを探るうちに家系図研究に目覚めたのだという。沖縄では一族を門中(むんちゅう)と呼び、太い絆で結ばれているという。ルーツを辿る与那嶺青年を古老たちが暖かく励ましてくれた。
そして転機が訪れた。与那嶺氏が大学を受験したのは68年。翌年は安田講堂の年。70年代に入ると学生運動は凄惨な内ゲバの時代に突入していった。与那嶺氏が入学した琉球大学教育学部は革マル派の牙城であり、民青の勢力も大きかった。71年には両派の学生が衝突し、死者もでた。そんな殺伐とした世界を離れて与那嶺氏は北を目指す。「北への憧れがあったんですね」と氏は笑う。北海道で水飴などを扱う会社の営業マンとして道内を回った。
北海道の田舎で氏が出会ったのは、息子や娘が都会へと去ったあとに残されたお年寄りたちだった。お年寄りを大切にし、家族の絆の強い土地柄に育った氏はその姿に大きな衝撃を受ける。「年老いた親を放っておくというのが信じられなかったですね」と氏は言う。そして入植者だったり、その子孫である北海道のお年寄りたちには自分のルーツへの想いが強かった。そしてある人にルーツ探しの手伝いを頼まれたことから家系図研究への熱意が加速していった。
その後、埼玉県に移り住み、日本家系図学会に入会し、研鑽を積み、82年には家系の法則性を発見し、家系図研究の第一人者としての地位を不動のものとした。与那嶺氏は家系図研究の面白さは「歴史の探偵になること」だと言う。「手にした史料から仮説を立てます。その仮説を検証するためにさらに史料を探索し、それを発見した時の喜びは何物にも代えがたいですね。」氏はこれまで膨大な数の過去帳、村方文書、墓誌などを探索、調査した家系図は2万件に及ぶという。 |